なぜ日本人は定年まで同じ会社にいるのか
「終身雇用は日本の美徳」という説明は表面的すぎる。実際には、個人が転職しにくくなる巧妙な社会システムが何重にも構築されている。それは選択ではなく、構造的な制約なのだ。
──── 年功序列という金の鎖
日本企業の年功序列制度は、時間の経過とともに転職コストを指数関数的に上昇させる仕組みだ。
入社10年目の社員が転職すると、多くの場合年収は下がる。なぜなら他社では「10年の経験」ではなく「他社での実績」で評価されるからだ。
しかし同じ会社にいれば、実力に関係なく年収は上昇し続ける。この「確実な上昇」vs「不確実な挑戦」という選択において、多くの人は前者を選ぶ。
さらに、管理職になるタイミングも年功序列で決まる。課長、部長、役員への昇進は、基本的に勤続年数によって規定されている。転職はこのレールから外れることを意味する。
──── 企業別労働組合という共犯関係
日本の労働組合は企業別に組織されている。これは労働者の利益を代表するはずの組織が、実際には企業の利益と一致する構造を生み出している。
組合員の転職は組合の力を弱める。だから労働組合は積極的に転職を妨げる。「会社と一緒に戦おう」というスローガンの下で、労働者の流動性を抑制している。
欧米のような産業別労働組合であれば、転職しても組合員としての地位は維持される。しかし日本では転職と同時に労働組合からも離脱することになる。
これは意図的な制度設計だ。労働者を企業に縛り付けるための、労使合作のシステムなのだ。
──── 住宅ローンという人質システム
30年や35年の住宅ローンは、事実上の債務奴隷制度だ。毎月の返済を考えると、収入の安定性が最優先になる。
転職によって年収が下がれば、ローンの返済が困難になる。最悪の場合、家を失うリスクもある。
金融機関もこの構造を理解している。住宅ローンの審査では勤続年数が重視され、転職回数の多い人は不利になる。これが転職への心理的ハードルをさらに高めている。
つまり、マイホーム購入の瞬間に、その人の転職可能性は大幅に制限される。30代で家を買った時点で、60歳まで同じ会社にいることがほぼ確定する。
──── 企業年金という引き止め装置
多くの日本企業は独自の企業年金制度を持っている。これは退職時期が遅くなるほど、受給額が大幅に増加する仕組みだ。
定年前に退職すると、企業年金の受給資格を失ったり、受給額が大幅に減額されたりする。20年、30年勤続した社員にとって、これは転職の大きな障壁になる。
さらに、企業年金の多くは「退職一時金」として支給される。つまり、転職のタイミングが遅れるほど、失う金額が大きくなる構造だ。
この制度によって、40代以降の転職は経済的に極めて困難になる。
──── 社会保障の企業依存
日本の社会保障システムは、企業経由での加入を前提としている。
健康保険、厚生年金、雇用保険、これらすべてが企業を通じて処理される。個人が直接加入する仕組みは限定的だ。
転職の空白期間があると、これらの保障が中断される。特に家族を持つ人にとって、健康保険の中断は大きなリスクだ。
このシステムは、労働者を企業に依存させるための意図的な設計と考えられる。
──── 中途採用市場の未発達
日本の労働市場は新卒一括採用を前提としている。中途採用は「例外的な補充」として位置づけられている。
その結果、中途採用のポジションは限定的で、条件も新卒採用より劣ることが多い。年齢による制限も厳しい。
「35歳転職限界説」という言葉があるように、一定年齢を超えると転職の選択肢は激減する。これは能力とは無関係な、システム的な制約だ。
また、日本企業の多くは中途採用者を「外部の人」として扱う傾向がある。昇進や重要プロジェクトへの参加で不利になることも多い。
──── 職能給という見えない鎖
日本企業の多くは「職能給」制度を採用している。これは特定の職務ではなく、その人の「能力」や「潜在性」に対して給与を支払う制度だ。
この制度の問題は、「能力」の評価基準が企業内でのみ通用することだ。他社に転職すると、これまでの評価はリセットされる。
欧米の「職務給」であれば、同じ職務であれば他社でも同等の待遇が期待できる。しかし日本の職能給制度では、転職によって必然的に待遇が下がる。
これも、労働者を企業内に留めるための制度的装置と言える。
──── 情報の非対称性
日本の転職市場は情報が極めて限定的だ。企業の実際の労働環境、給与水準、昇進可能性について、外部からは正確な情報を得にくい。
一方で、現在の職場については詳細な情報を持っている。この情報格差が、現状維持バイアスを強化している。
また、転職活動自体が秘密裏に行われるため、成功事例や失敗事例についての情報共有も限定的だ。
「転職はリスクが高い」という認識が広まるのも、この情報不足が原因の一つだ。
──── 社会的同調圧力
日本社会では「石の上にも三年」「継続は力なり」といった価値観が根強い。転職は「根性がない」「忍耐力がない」と評価されがちだ。
特に地方や伝統的な業界では、この傾向が顕著だ。転職することで、家族や親戚からの批判を受けることも珍しくない。
一方で、欧米では転職は「キャリアアップ」として肯定的に評価される。この価値観の違いが、転職行動に大きな影響を与えている。
──── システムの自己強化
これらの要素が相互に作用し合って、転職を困難にするシステムが自己強化されている。
転職者が少ないから中途採用市場が発達しない。中途採用市場が未発達だから転職が困難になる。転職が困難だから終身雇用が維持される。
この循環構造を個人の意思だけで打破するのは極めて困難だ。
──── 企業側の利益
なぜこのようなシステムが維持されているのか。それは企業側にとって大きな利益があるからだ。
労働者の流動性が低いということは、企業側の人材確保コストが低いということだ。高い給与や良い労働環境を提供しなくても、人材が流出しない。
また、企業固有のスキルに特化した人材を長期間活用できる。これは短期的な利益を最大化する戦略だ。
ただし、この戦略が長期的に日本経済全体の生産性を低下させているという指摘もある。
──── 変化の兆し
最近は若い世代を中心に、転職に対する意識が変化している。終身雇用への疑問も増えている。
しかし、上記のような構造的制約は依然として強固だ。個人の意識変化だけでは、システム全体の変革は困難だろう。
──── 個人レベルでの対処法
このシステムを理解した上で、個人としてどう対処するか。
まず、住宅ローンや企業年金などの「金の鎖」を慎重に検討する必要がある。一度縛られると、選択肢は大幅に制限される。
次に、企業固有のスキルだけでなく、市場価値のあるポータブルスキルの習得を心がける。
そして、転職市場に関する情報収集を継続的に行う。いざという時のために、選択肢を把握しておく。
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日本人が定年まで同じ会社にいるのは、文化や価値観の問題ではない。巧妙に設計された制度的制約の結果なのだ。
この現実を理解することが、真の選択をするための第一歩となる。
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※本記事は制度分析を目的としており、特定の働き方を推奨するものではありません。個人的見解に基づく考察です。