天幻才知

なぜ日本人は起業より就職を選ぶのか

日本の起業率は先進国の中でも極めて低い。2022年のデータでは、日本の開業率は5.1%に過ぎず、アメリカの13.9%、イギリスの14.6%と比較して圧倒的に少ない。この現象は単なる文化的差異では説明できない。構造的な阻害要因が存在する。

──── 終身雇用というセーフティネット

日本の労働市場における最大の特徴は、終身雇用制度の残存だ。

正社員として就職すれば、定年まで雇用が保障され、年功序列で昇進・昇給が約束される。企業年金、退職金、各種社会保障も充実している。

起業は、このセーフティネットを放棄することを意味する。成功の保証がない起業に対して、安定した雇用を捨てるリスクは合理的判断として割に合わない。

特に日本では、一度正社員の地位を失うと、再度同等の条件での就職が困難になる。中途採用市場が未発達で、転職による昇進・昇給の機会も限られている。

──── 失敗への社会的制裁

日本社会における失敗への処罰は過酷だ。

事業に失敗した経営者は「無責任」「見通しが甘い」として社会的信用を失う。金融機関からの借入が困難になり、就職活動でも不利になる。

アメリカでは起業の失敗は「経験」として評価されることもあるが、日本では「汚点」として扱われる。この社会的制裁の恐怖が、起業への心理的ハードルを高めている。

「失敗しても再チャレンジできる」という環境が整っていない限り、リスクを取る合理的理由がない。

──── 資金調達の構造的困難

日本の金融システムは起業に不向きだ。

銀行融資は担保や保証人を要求し、新規事業への理解も乏しい。ベンチャーキャピタルの資金規模も小さく、エンジェル投資家の数も限られている。

起業には初期資金が必要だが、その調達手段が極めて限定的だ。多くの場合、個人の貯蓄や家族からの借入に依存せざるを得ない。

一方で、就職すれば安定した給与が保証される。資金リスクを負わずに済む就職の方が、経済的に合理的な選択となる。

──── 社会保障制度の就業者優遇

日本の社会保障制度は被雇用者を前提として設計されている。

健康保険、厚生年金、雇用保険、これらはすべて正社員として就職することで自動的に加入できる。一方で、個人事業主や経営者は国民健康保険、国民年金に加入するが、保障内容は劣る。

起業することで社会保障のレベルが下がるという現実が、起業へのインセンティブを削いでいる。

──── 教育システムの就職志向

日本の教育制度は就職を前提として構築されている。

大学では就職活動が重要な行事として位置づけられ、キャリアセンターは就職支援に特化している。起業に関する教育やサポートは極めて限定的だ。

学生は入学時から「良い企業に就職する」ことを目標として設定され、起業という選択肢は視野に入らない。このような教育環境では、起業家精神が育まれる余地がない。

──── 大企業の待遇優位性

日本の大企業は中小企業や起業と比較して圧倒的に有利な条件を提供している。

給与水準、福利厚生、社会的ステータス、すべてにおいて大企業が優位だ。特に社会的ステータスの差は大きく、「一部上場企業勤務」という肩書きの価値は高い。

起業して成功したとしても、大企業員と同等の社会的評価を得られるかは不明だ。リスクを取って起業するインセンティブが働かない。

──── 規制の複雑さ

日本の起業に関わる規制は複雑で、手続きコストが高い。

会社設立の手続き、各種許認可の取得、税務処理、労務管理。これらすべてに専門知識が必要で、多大な時間とコストがかかる。

一方で就職すれば、これらの煩雑な手続きから完全に解放される。企業が代行してくれるからだ。

──── 成功モデルの不在

日本では起業成功者のロールモデルが少ない。

アメリカではビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズといった起業家が英雄視されるが、日本では企業経営者よりもサラリーマンが理想像として扱われる。

成功事例が見えなければ、起業を現実的な選択肢として認識しづらい。

──── 家族・社会の期待

日本社会では「安定した職業に就く」ことが家族や社会からの期待として強く存在する。

親は子供に公務員や大企業への就職を勧め、起業は「危険な道楽」として反対される。この社会的圧力が、起業への心理的ハードルをさらに高めている。

──── 構造変化の兆し

ただし、これらの構造は徐々に変化している。

終身雇用制度の崩壊、働き方改革、デジタル化による起業コストの低下、クラウドファンディングの普及。これらの変化が起業環境を改善する可能性がある。

しかし、根本的な社会意識の変化には時間がかかる。制度が変わっても、人々の行動パターンが即座に変わるわけではない。

──── 個人レベルでの判断

現状において、日本人が起業より就職を選ぶのは合理的判断だ。

リスクとリターンを冷静に比較すれば、多くの場合就職の方が有利だからだ。これは個人の能力や意欲の問題ではなく、システムの問題だ。

起業率を高めたいなら、個人の意識改革ではなく、制度改革が必要だ。

────────────────────────────────────────

日本の低い起業率は、複合的な構造要因の結果である。文化論だけでは説明できない、経済合理性に基づいた選択の帰結だ。

この構造を変えるには、社会保障制度、金融システム、教育制度、労働市場のすべてにわたる包括的な改革が必要だろう。しかし、そのような大規模改革の政治的実現可能性は低い。

当面は現行システムの中で最適な選択を行うしかない。

────────────────────────────────────────

※本記事は現状分析を目的としており、起業や就職の価値判断を行うものではありません。個人的見解に基づいています。

#起業 #就職 #終身雇用 #日本社会 #リスク回避 #社会構造