ユーザエクスペリエンス改善という曖昧な目標
「ユーザエクスペリエンス改善のため」という理由で、どれほど多くの無駄なプロジェクトが正当化されてきただろうか。この曖昧な目標は、現代IT業界における最も巧妙な思考停止装置の一つだ。
──── UXという万能の免罪符
プロダクト開発の現場で「UX改善」ほど便利な言葉はない。
新機能を追加したい時は「ユーザの利便性向上のため」、既存機能を削除したい時は「ユーザの混乱を防ぐため」、デザインを変更したい時は「より直感的なUIのため」。
すべての意思決定がUXという錦の御旗の下で正当化される。批判しようものなら「ユーザのことを考えていない」と非難される。
しかし、その「改善」は本当にユーザのためなのか。それとも、決定者の主観的な美意識や、組織内の政治的都合を隠蔽するための方便なのか。
──── 測定不可能性の利便さ
UXが重宝される最大の理由は、その測定の困難さにある。
売上やコンバージョン率は明確な数値で現れる。機能の不具合は客観的に判定できる。しかしUXの良し悪しは、主観的評価に大きく依存する。
この測定困難性は、失敗の責任を曖昧にする。「UX改善のためのリニューアル」が売上の低下を招いても、「長期的な効果を待つべき」「ユーザの慣れの問題」「測定方法が不適切」といった言い訳が可能だ。
定量的評価が困難だからこそ、誰も責任を問われない。
──── ユーザ調査という儀式
UX改善プロジェクトには必ずといっていいほど「ユーザ調査」が付随する。
インタビュー、アンケート、ユーザビリティテスト。これらの手法自体に問題はない。しかし、多くの場合、調査は既に決まった結論を正当化するための後付けの儀式と化している。
調査対象の選定、質問の設計、結果の解釈。すべての段階で恣意的な操作が可能だ。そして「ユーザの声に基づいて判断した」という体裁が完成する。
実際にはユーザの多様性を無視した、ステレオタイプに基づく決定であることが多い。
──── デザイナー権威主義の温床
UX改善という名目は、デザイナーの権威を不当に拡大する土壌を提供している。
「美しいデザイン」「直感的なインターフェース」「ユーザ中心設計」といった専門用語で武装したデザイナーが、機能面や技術面の制約を無視した理想論を押し付ける構図が生まれやすい。
エンジニアが技術的困難性を指摘すれば「ユーザのことを考えていない」、営業が売上への影響を懸念すれば「短期的思考だ」と批判される。
専門家の権威を背景にした、実質的な独裁体制の隠蔽装置として機能している。
──── イノベーション阻害装置
「ユーザの使いやすさ」を最優先にすると、革新的な機能や画期的な変更が困難になる。
ユーザは現状に慣れ親しんでいる。新しいパラダイムには必然的に学習コストが伴う。したがって、短期的なユーザビリティテストでは、革新的なアイデアは必ず低評価を受ける。
iPhone発売時のフリック入力、Twitterの140文字制限、TikTokの縦型動画。これらの革新は、従来のユーザビリティ常識に反するものだった。
UX改善至上主義は、こうした革新の芽を摘み取る。「ユーザが混乱するから」という理由で、すべての挑戦が拒絶される。
──── 本当の問題の隠蔽
多くの場合、「UXの問題」として扱われているものは、実際には別の問題だ。
システムが遅い→「レスポンス改善によるUX向上」 機能が複雑→「UI簡素化によるUX改善」 サポートが不十分→「直感的操作によるUX最適化」
本来はパフォーマンス、設計思想、カスタマーサービスの問題なのに、すべてUXの問題として一括処理される。
結果として、根本原因が放置され、表面的な対症療法に終始する。
──── 組織の思考放棄
UX改善という目標設定は、組織全体の思考力低下を招く。
具体的な課題分析の代わりに「とりあえずUX改善」、競合分析の代わりに「業界標準のUX」、ROI計算の代わりに「長期的なUX投資」。
すべての意思決定プロセスが、この万能のキーワードによって短絡化される。なぜその変更が必要なのか、何を達成したいのか、どう評価するのか、こうした基本的な問いが放棄される。
組織全体が思考停止状態で、惰性的にUX改善活動を続ける。
──── 代替案:具体的目標設定
UX改善という曖昧な目標の代わりに、より具体的で測定可能な目標を設定すべきだ。
「新規ユーザーの30日以内離脱率を20%削減」 「特定機能の利用率を15%向上」 「サポート問い合わせを月間100件削減」 「作業完了までの平均時間を30%短縮」
これらの目標は、達成度を客観的に評価できる。失敗の原因も特定しやすい。責任の所在も明確だ。
もちろん、結果的にユーザエクスペリエンスも向上するだろう。しかし、それは副次的な効果として現れるものであり、直接の目標ではない。
──── 真のユーザ中心主義
皮肉なことに、「UX改善」を声高に叫ぶ組織ほど、実際にはユーザから遠ざかっている。
真にユーザのことを考える組織は、抽象的な理念を語らない。具体的なユーザの具体的な課題に焦点を当てる。
「20代女性の通勤時間帯における操作性向上」 「高齢者の初回利用時の混乱軽減」 「繁忙期のアクセス集中時の安定性確保」
このような具体的な課題設定こそが、真のユーザ中心主義だ。
──── 結論:曖昧さからの脱却
ユーザエクスペリエンス改善という目標は、あまりにも曖昧で包括的すぎる。
この曖昧さが、責任逃れ、思考停止、権威主義、イノベーション阻害を招いている。
必要なのは、より具体的で測定可能な目標設定だ。そして、その目標が本当にビジネス上の価値を生み出すのか、冷静に評価することだ。
UXという言葉に惑わされず、実際の問題解決に集中する。それが、結果的に最も優れたユーザエクスペリエンスを生み出すはずだ。
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※本記事はUXデザインという専門分野を否定するものではありません。しかし、その名の下で行われる思考停止的な意思決定には警鐘を鳴らしたいと考えています。