天幻才知

大学教授という特権階級の実態

大学教授ほど恵まれた職業は、現代社会にそう多くない。終身雇用、研究の完全な自由、社会的権威、これらすべてを同時に享受できる職業が他にあるだろうか。

しかし、この特権的地位がどのように維持され、どのような問題を生んでいるかは、あまり語られることがない。

──── 終身雇用という絶対的安定

テニュア制度は、表向きは「学問の自由を保護する」ためのシステムとされている。

しかし実際には、一度獲得すれば解雇される心配がほぼ皆無という、極めて希少な雇用保障を提供している。

民間企業では成果主義が浸透し、公務員でさえ人事評価制度が厳格化されている現代において、大学教授だけが19世紀的な身分保障を享受している。

この安定は確かに長期的研究を可能にするが、同時に怠惰への誘惑も提供する。成果を出さなくても職を失わない環境では、真に必要なのは強い内的動機だけだ。しかし、すべての人間がそうした動機を持続できるわけではない。

──── 研究の自由という名の放任

「何を研究するかは教授の自由」という原則は美しく聞こえる。

しかし、これは同時に「社会的責任からの解放」でもある。民間企業なら市場が、官僚なら政策効果が、その成果を厳しく評価する。

大学教授の研究成果を評価するのは、主に同業者のピア・レビューだ。これは質の維持には有効だが、社会的relevanceの評価には限界がある。

結果として、社会から隔絶した「象牙の塔」的研究が温存される。それが学問の多様性に寄与する面もあるが、税金で運営される公的機関としての説明責任は曖昧になる。

──── 権威という無形の特権

「大学教授」という肩書きが持つ社会的権威は絶大だ。

メディアでの専門家コメント、政府審議会での委員、企業での顧問、これらの機会は教授の肩書きがあってこそ得られるものが多い。

興味深いのは、この権威が必ずしも実績に比例しないことだ。優秀な民間研究者や実務家よりも、平凡な大学教授の方が「権威ある意見」として扱われることは珍しくない。

これは、社会が学歴や肩書きに対して持つ根深い信仰の表れでもある。

──── 教育責任の軽視

大学教授の主要な職務の一つは教育だが、実際にはこれが軽視されがちだ。

研究業績は客観的に評価され、昇進や評価に直結する。しかし、教育の質は測定が困難で、評価システムも曖昧だ。

結果として、教育に情熱を注ぐ教授もいる一方で、最低限の義務だけを果たして研究に専念する教授も多い。

学生から見れば、高い学費を払って受ける教育の質が担保されていないという問題がある。「研究重視」という名目で、教育責任が軽視される構造的問題だ。

──── 選考プロセスの不透明性

大学教授の採用プロセスは、多くの場合極めて不透明だ。

公募という形式は取るものの、実際には事前に候補者が内定している「出来レース」も珍しくない。学閥、人脈、政治的配慮、これらが業績以上に重要になることがある。

この不透明性は、優秀な人材の排除や、多様性の欠如につながる。特に、既存の権力構造に挑戦するような研究者は排除されやすい。

民間企業なら株主が、政府なら国民が最終的な責任を負うが、大学の人事に対する外部チェック機能は限定的だ。

──── 国際競争力の低下

日本の大学の国際ランキング低下は深刻だ。しかし、その原因の一つが教授陣の「ぬるま湯」的環境にある可能性は高い。

厳しい競争環境にある海外の研究者と比較して、日本の大学教授の研究生産性やイノベーション創出力は見劣りする分野が多い。

終身雇用制度が安定を提供する一方で、切迫感や競争意識を削いでいる側面は否定できない。

──── 社会との乖離

大学教授の多くは、学生時代から一貫してアカデミアの世界に身を置いている。

民間企業での実務経験、起業経験、社会の最前線での課題解決経験を持たない教授が、社会について語り、学生を指導する。この構造的な問題は深刻だ。

理論と実践の乖離、机上の空論、現実感覚の欠如、これらは大学教育全体の質を下げる要因となっている。

──── 改革への抵抗

既得権益を享受している集団は、当然ながら変革に抵抗する。

大学改革が叫ばれて久しいが、根本的な変化はほとんど起きていない。教授会の自治権という名の下に、外部からの改革圧力は巧妙に排除される。

「学問の自由」という大義名分は、しばしば「変化からの自由」にすり替わる。

──── 特権階級としての自覚

問題は、多くの大学教授が自分たちの特権的地位を自覚していないことだ。

「苦労して研究者になった」「薄給で研究に専念している」といった自己認識は、客観的な特権性を覆い隠す。

終身雇用、研究の自由、社会的権威、これらがどれほど希少で価値ある特権かを理解している教授は少ない。

この自覚の欠如が、社会との乖離をさらに深刻化させている。

──── 解決策の模索

この問題に対する解決策は単純ではない。

過度の市場原理導入は学問の質を下げる可能性があり、完全な競争環境は長期的研究を困難にする。

しかし、現状の温存も許されない。適度な競争圧力の導入、社会との接点の増加、透明性の向上、これらが必要だろう。

具体的には、定期的な業績評価制度、外部人材の積極的登用、産学連携の強化、教育の質保証システムの構築などが考えられる。

──── 特権を活かす責任

大学教授という特権的地位は、それ自体が悪いわけではない。

社会が教授という職業に特権を与えるのは、その特権を活かして社会に貢献してもらうためだ。

問題は、特権を享受するだけで責任を果たしていない教授の存在だ。

真に社会に貢献する研究、質の高い教育、次世代の育成、これらを通じて特権に見合う価値を提供する教授がいる一方で、そうでない教授も確実に存在する。

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大学教授という職業の特権性を指摘することは、学問軽視ではない。むしろ、学問の価値を高めるために必要な議論だ。

特権には責任が伴う。その責任を果たしている教授には敬意を払うべきだし、果たしていない教授には改善を求めるべきだ。

大学が社会から真に尊敬される機関であり続けるためには、この現実と向き合うことが必要だろう。

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※本記事は大学教授という職業の構造的問題について分析したものであり、個々の教授への人格攻撃を意図するものではありません。また、筆者個人の見解に基づいています。

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