心理的安全性という管理手法の欺瞞
「心理的安全性」という概念が組織論の主流となって久しい。しかし、この一見進歩的に見える管理手法の本質は、従来の管理統制をより精巧に、より見えにくい形で実現する新たな支配システムではないのか。
──── 心理的安全性の表向きの定義
エイミー・エドモンドソンによって提唱された心理的安全性とは、「チームの中で対人関係上のリスクを取っても安全だと信じられる状態」を指す。
具体的には、失敗を恐れずに発言でき、質問や相談を自由にでき、多様な意見を表明できる環境のことだとされる。
表面的には、これは理想的な職場環境の実現を目指しているように見える。
──── 管理者の新たな武器
しかし実際の運用を見ると、心理的安全性は管理者にとって極めて都合の良いツールとして機能している。
従来の威圧的管理では、部下の不満や反発が可視化されやすかった。しかし心理的安全性の名の下では、部下は「自発的に」協力し、「建設的に」意見を述べることが期待される。
つまり、反抗や批判を封じ込めながら、同時に参加感を演出できる完璧な管理手法なのだ。
「君の意見を聞かせてくれ」と言いながら、実際には管理者の望む方向への誘導が行われている。
──── 「安全」の定義を握る者の権力
心理的安全性における最大の問題は、何が「安全」で何が「危険」かを決定する権限が、結局は権力者側にあることだ。
管理者にとって都合の悪い意見は「建設的でない」とされ、組織の方針に疑問を呈することは「チームワークを乱す行為」として排除される。
一方で、管理者の意図に沿った発言は「勇気ある提案」として称賛される。
この選別プロセスによって、部下は無意識のうちに自己検閲を行うようになる。
──── 感情労働の強制
心理的安全性の実現には、メンバー全員による継続的な感情労働が必要とされる。
常に建設的で、前向きで、協力的な態度を維持すること。これは自然な感情表現の抑制を意味する。
怒り、失望、諦め、といった否定的な感情は「心理的安全性を脅かすもの」として排除される。結果として、メンバーは感情的な負荷を一人で抱え込むことになる。
この状況下では、真の心理的安全などありえない。
──── データ至上主義との親和性
現代の組織では、心理的安全性も数値化・測定の対象となっている。
定期的な心理的安全性調査、エンゲージメント測定、チーム雰囲気の可視化。これらによって、メンバーの内面まで管理の対象となる。
「心理的安全性スコア」が低いチームは改善を求められ、マネージャーの評価にも影響する。
結果として、心理的安全性の向上そのものが新たなプレッシャーとなっている。
──── 個人の責任への転嫁
心理的安全性が機能しない場合、その原因は個人の「心理的脆弱性」や「コミュニケーション能力不足」に帰結される。
組織構造や権力関係、実質的な労働条件といった構造的問題は見過ごされ、すべては個人の心理状態の問題として処理される。
これは問題の本質を隠蔽し、根本的解決を妨げる効果的な手法だ。
──── 異議申し立ての無効化
最も巧妙なのは、心理的安全性への批判すら無効化できることだ。
「心理的安全性に問題がある」という指摘は、「あなたが心理的に不安定だから」「チームワークを理解していないから」として片付けられる。
批判者は「心理的安全性を理解していない人」というレッテルを貼られ、議論の土俵から排除される。
これは完璧な自己防衛システムだ。
──── 日本企業における変質
日本企業での心理的安全性の導入は、さらに独特な形に変質している。
「空気を読む」文化と結合し、「心理的安全性を保つために空気を読め」という矛盾した要求が生まれている。
結果として、従来の同調圧力がより洗練された形で温存されている。
「心理的に安全な発言」とは、実質的に「組織に害をもたらさない発言」を意味している。
──── 真の問題の隠蔽
心理的安全性という概念は、労働者が直面する本質的問題を隠蔽する効果を持つ。
長時間労働、不公正な評価、理不尽な業務命令、将来への不安。これらの構造的問題は、「心理的安全性の問題」として個人化され、本質的な改善が先送りされる。
労働者の不満は「コミュニケーションの問題」に矮小化され、システムの改革ではなく個人の適応が求められる。
──── 抵抗の困難さ
心理的安全性システムに対する抵抗は極めて困難だ。
なぜなら、それは表面的には労働者の利益を謳っているからだ。反対すれば「労働環境改善に反対する人」として見られる。
しかし、実際には新しい形の管理統制システムなのだ。
──── 代替案の不在
現在の組織論において、心理的安全性に代わる概念が提示されていないことも問題だ。
労働者は、不完全でも心理的安全性システムを受け入れるか、より露骨な権威主義的管理に戻るかの選択肢しか与えられていない。
第三の選択肢、真に労働者の自律性を尊重するシステムの構想が必要だ。
──── 個人レベルでの対処
この状況で個人ができることは限られている。
しかし、少なくとも心理的安全性という概念の両面性を認識し、盲目的に受け入れることは避けるべきだ。
「心理的に安全」であることと、「真に自由」であることは別物だということを理解しておく必要がある。
また、組織の心理的安全性施策に対しては、その実効性を冷静に評価し、表面的な改善に満足しないことが重要だ。
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心理的安全性という概念は、21世紀の管理技術の洗練を象徴している。それは露骨な支配ではなく、労働者の同意を得ながら行われる巧妙な管理システムだ。
この現実を認識することなしに、真の労働環境改善は不可能だろう。
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※本記事は心理的安全性概念の構造的分析を目的としており、個別の組織や管理者を批判するものではありません。また、労働環境改善の努力を否定するものでもありません。