天幻才知

メンタルヘルスブームの虚構性

現代のメンタルヘルスブームは、表面上は個人の福祉向上を謳っているが、その実態は構造的問題を個人の責任に転嫁する巧妙なシステムだ。

──── 「心の健康」の商品化

メンタルヘルス産業は急速に拡大している。アプリ、セミナー、書籍、カウンセリング、コーチング。すべてが「あなたの心の健康のため」という名目で販売されている。

しかし、これらの商品が前提としているのは「問題は個人の内側にある」という認識だ。

ストレスの原因が劣悪な労働環境にあっても、解決策は「ストレス管理技術の習得」として提示される。 低賃金が生活不安を生んでいても、処方箋は「マインドフルネス」だ。 社会システムの欠陥が精神的負担を生み出していても、改善すべきは「個人のレジリエンス」とされる。

これは問題の本質から目を逸らし、現状維持を促進する効果を持つ。

──── セルフケアという名の自己責任

「セルフケア」という概念は、一見すると個人の自律性を尊重しているように見える。

しかし、実際には社会的支援の縮小を正当化する道具として機能している。

従来は社会や組織が提供すべきだった安全網が「個人の責任」として再定義される。職場のハラスメント対策ではなく「ストレス耐性の向上」、社会保障の充実ではなく「自己肯定感の醸成」が推奨される。

この転換により、構造的改革のコストを個人に転嫁することが可能になった。

──── データ化される感情

現代のメンタルヘルス管理は、感情の定量化を基盤としている。

アプリで気分を数値化し、ウェアラブルデバイスでストレスレベルを測定し、AIが最適な対処法を提案する。

一見科学的で効率的だが、これは人間の感情を工業製品のように扱う思考だ。

感情は本来、個人的で主観的で文脈依存的なものだ。それを標準化された指標で管理することは、人間性の重要な側面を切り捨てることに他ならない。

──── 病理化される正常反応

現代社会では、構造的問題に対する正常な反応が「病気」として診断される傾向が強まっている。

不公平な社会に対する怒りは「怒りの管理問題」とされ、 理不尽な労働条件への疲弊は「燃え尽き症候群」として医療化され、 経済不安による心配は「不安障害」として個人の問題に還元される。

これらは本来、社会変革への動機となりうる感情だ。それを「治療すべき症状」として扱うことは、社会批判の芽を摘むことにつながる。

──── ウェルビーイングの逆説

「ウェルビーイング」という概念も同様の構造を持っている。

企業は従業員のウェルビーイング向上を謳いながら、根本的な労働条件の改善は行わない。代わりに、瞑想ルーム、ヨガクラス、カウンセリングサービスを提供する。

これらのサービス自体に問題があるわけではない。問題は、それらが構造的改革の代替品として提示されることだ。

「働き方を変える」のではなく「働き方への適応力を高める」ことが目標とされる。

──── 専門家依存の構造

メンタルヘルスブームは、新たな専門家階級を生み出している。

心理学者、カウンセラー、コーチ、セラピスト、ウェルネス専門家。彼らは「心の専門家」として、個人の感情や行動に対する権威を握っている。

この構造は、個人が自分自身の感情を理解し処理する能力を奪う可能性がある。

従来は家族、友人、コミュニティが担っていた相談・支援機能が、有償の専門サービスに置き換えられる。これは社会的結束の弱体化と商業化の進展を意味する。

──── 生産性最優先の隠された目的

多くの企業がメンタルヘルス対策に投資する真の理由は、従業員の福祉ではなく生産性の向上だ。

「健康な従業員はより生産的」という論理の下で、メンタルヘルス施策が導入される。しかし、これは人間を生産要素として最適化する発想そのものだ。

個人の幸福が目的ではなく、より効率的な労働力を確保するための手段として位置づけられている。

──── 真の問題からの目逸らし

現代社会が抱える精神的苦痛の多くは、個人の問題ではなく構造的問題に起因している。

格差の拡大、雇用の不安定化、コミュニティの解体、将来への不安、社会的孤立。これらは個人の努力や心構えでは解決できない問題だ。

しかし、メンタルヘルスブームはこれらの問題を「個人の適応能力の問題」として再定義する。

結果として、真に必要な社会的・政治的変革への議論が回避される。

──── 対抗的視点の必要性

メンタルヘルス自体を否定する必要はない。個人レベルでのケアや支援は重要だ。

問題は、それが社会構造の改革と対立するものとして位置づけられることだ。

真のメンタルヘルス向上には、個人的アプローチと構造的アプローチの両方が必要だ。

個人が適応力を高めると同時に、社会が個人に与える負担を軽減する必要がある。前者だけを強調し、後者を無視することは、問題の本質的解決を阻害する。

──── オルタナティブな視点

メンタルヘルスを真剣に考えるなら、以下のような視点も重要だ:

精神的苦痛を個人の病気ではなく、社会の警告信号として捉える。 「適応」よりも「抵抗」の価値を認める。 専門家依存ではなく、コミュニティベースの相互支援を重視する。 生産性向上ではなく、人間の尊厳を最優先に置く。 標準化された解決策ではなく、個別的で文脈的なアプローチを採用する。

──── 構造変革への道筋

真のメンタルヘルス向上には、以下のような構造的変革が必要だ:

労働時間の短縮と労働条件の改善 社会保障制度の充実 格差是正政策の実施 コミュニティ機能の復活 将来不安を解消する長期的政策

これらの変革なしに、個人レベルのメンタルヘルス対策がいくら充実しても、根本的な改善は期待できない。

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メンタルヘルスブームの問題は、それが間違っていることではない。問題は、それが不完全で一面的であることだ。

個人の適応を促進する一方で、適応すべき環境そのものを問題視することを回避している。

真のメンタルヘルスとは、個人と社会の両方が健全である状態のことだ。現在のブームは、この視点を欠いている。

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※この記事は、メンタルヘルス支援そのものを否定するものではありません。構造的視点の重要性を強調することを目的としています。

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