天幻才知

なぜ日本の経営者は株主より従業員を重視するのか

「株主第一主義はおかしい」──こう発言する日本の経営者は少なくない。欧米では当然とされる株主価値最大化の原則に対して、日本の経営者が示す抵抗感には明確な理由がある。

──── 人的資本への依存度

日本企業の競争力は、設備や技術よりも「人」に大きく依存している。

製造業における品質管理、サービス業における顧客対応、これらの競争優位性は従業員の技能と献身によって支えられている。

欧米企業のように標準化されたプロセスやシステムへの依存度が相対的に低い日本企業にとって、従業員の離職は直接的な競争力の低下を意味する。

したがって、短期的な株主利益のために従業員を犠牲にすることは、長期的な企業価値の毀損につながる。これは合理的な経営判断だ。

──── 終身雇用制度という投資システム

終身雇用制度は、しばしば前近代的制度として批判される。しかし、経済学的に見れば極めて合理的な投資システムでもある。

企業は従業員に対して長期的な雇用保障を提供する代わりに、企業特殊的スキルへの投資を行う。従業員も転職リスクが低い環境で、その企業でしか通用しない専門性を深める。

この相互依存関係は、一度構築されると他社には模倣困難な競争優位性となる。

欧米型の株主資本主義では、この投資回収期間が短期的な業績圧力によって阻害される可能性が高い。

──── リスク分散の戦略

株主は投資を分散できるが、従業員は人生を一つの企業に賭けている。

この非対称性を理解している日本の経営者は、従業員により大きな配慮を示す。なぜなら、従業員の持つリスクが企業の持続可能性に直結するからだ。

株主は業績が悪化すれば株を売ればよい。しかし、従業員は簡単に会社を変えることはできない。この構造的な違いが、ステークホルダー間の利害調整における重点配分を決定している。

──── 社会的正統性の確保

日本社会において、企業は単なる利潤追求組織ではない。社会の一員としての責任を果たすことが期待されている。

「株主のためだけに経営している」と公言する経営者は、社会的な支持を失う可能性が高い。これは顧客離れ、優秀な人材の確保困難、行政との関係悪化など、具体的な経営リスクとして現れる。

日本の経営者は、この社会的文脈を理解した上で戦略的にステークホルダー資本主義を選択している。

──── 長期的思考の合理性

四半期ごとの業績向上を求める株主圧力は、長期的な企業価値創造と矛盾することがある。

研究開発投資、人材育成投資、設備更新投資。これらは短期的には利益を圧迫するが、長期的な競争力の源泉となる。

日本の経営者が株主圧力を適度に無視することで、これらの長期投資を継続できている側面がある。

皮肉なことに、この「株主軽視」が結果的に長期的な株主利益を最大化している可能性もある。

──── 内部留保という緩衝材

日本企業の高い内部留保率は、しばしば「株主軽視」の象徴として批判される。

しかし、この内部留保は経済危機時の雇用維持、設備投資の継続、研究開発の維持を可能にする重要な緩衝材として機能している。

2008年のリーマンショック、2020年のコロナ禍において、内部留保の厚い日本企業が雇用を維持できた事実は、この戦略の有効性を証明している。

配当や自社株買いによって資金を株主に還元してしまえば、こうした危機対応は不可能になる。

──── 銀行主導システムの名残

戦後日本の企業統治は、株主ではなく銀行が中心的役割を果たしてきた。

銀行は株主よりも長期的視点を持ち、企業の持続的成長を重視する。この環境下で形成された経営哲学が、現在でも日本企業の経営者に影響を与えている。

近年は銀行の影響力が低下し、株主の発言力が高まっているが、経営者の意識変化はそれに追いついていない。

これは単なる慣性ではなく、上記の合理的理由に裏付けられた戦略的選択でもある。

──── グローバル競争への適応

興味深いことに、日本企業のステークホルダー重視経営は、近年のグローバルトレンドと親和性が高い。

ESG投資の拡大、ステークホルダー資本主義の見直し、長期的価値創造への注目。これらの動きは、日本的経営の先見性を示している。

欧米企業が短期的株主利益追求の弊害に直面する中、日本企業の経営アプローチが再評価される可能性がある。

──── しかし課題も存在する

ただし、従業員重視経営にも明確な限界がある。

意思決定の遅さ、変革への抵抗、グローバル競争での劣勢。これらの問題は、過度な内部配慮が原因となっている場合も多い。

また、株主軽視が経営者の規律を緩め、非効率な経営を温存している側面も否定できない。

重要なのは、株主と従業員のどちらを重視するかではなく、両者の利害を長期的に調和させる経営手法を確立することだ。

──── 新しい均衡点の模索

日本の経営者が直面しているのは、伝統的なステークホルダー重視経営と、グローバル化する資本市場の要求との間でバランスを取ることだ。

単純な欧米化でもなく、頑固な伝統維持でもない。第三の道を模索する必要がある。

その答えは、おそらく従業員重視と株主価値創造を両立させる新しい経営モデルの中にある。

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日本の経営者の従業員重視は、感情論ではなく合理的戦略判断に基づいている。

問題は、この戦略が現在の経営環境において最適かどうかだ。変化する競争環境の中で、日本企業は新しい均衡点を見つける必要がある。

株主か従業員かという二者択一ではなく、両者の利害を長期的に調和させる経営哲学の確立。それが日本企業の次の課題だろう。

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※本記事は企業経営の構造分析を目的としており、特定の経営手法を推奨するものではありません。

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