天幻才知

日本のバイオテクノロジーが世界に遅れる理由

日本は発酵技術で世界を席巻した国だった。味噌、醤油、日本酒から抗生物質まで、微生物を巧みに操る技術において他国の追随を許さなかった。しかし現在、バイオテクノロジー分野で日本の存在感は希薄だ。なぜこの転落は起きたのか。

──── 成功体験による硬直化

日本の製薬業界は、20世紀後半の化学合成薬での成功に固執しすぎた。

武田薬品、第一三共、アステラス製薬といった大手は、従来の低分子化合物による創薬モデルで利益を上げ続けていた。新しいバイオ医薬品への転換は、既存の資産と技術蓄積を無価値化するリスクを伴う。

結果として、mRNAワクチン、抗体医薬品、細胞治療といった革新的領域で出遅れることになった。

変化への適応よりも、既存システムの効率化を優先する日本的経営の典型例だった。

──── 規制当局の保守性

医薬品医療機器総合機構(PMDA)の承認プロセスは、安全性を重視するあまり革新性を阻害している。

新しいバイオテクノロジーに対する理解不足と、前例のない技術への警戒心が、審査の長期化を招く。企業は日本市場での承認よりも、FDA(米国食品医薬品局)での承認を優先するようになった。

「Drug Lag」(海外で承認された薬剤の日本での承認遅延)は、今なお解決されていない構造的問題だ。

規制当局が革新の足枷になっている現状は、産業全体の競争力を削いでいる。

──── 大学発ベンチャーの弱さ

アメリカではスタンフォード大学、ハーバード大学、MIT周辺にバイオテクノロジー企業が集積している。しかし日本では、大学発のバイオベンチャーは極めて少ない。

日本の大学研究者は、企業との連携や起業に対して消極的だ。「研究の商業化は学術的純粋性を損なう」という価値観が根強い。

加えて、大学の技術移転機構(TLO)の機能も不十分で、優秀な研究成果が実用化されないまま埋もれるケースが多い。

基礎研究の質は高いが、それを産業化する仕組みが機能していない。

──── 資金調達環境の問題

バイオテクノロジー分野は、長期間の研究開発と巨額の投資を必要とする。しかし日本の投資家は、このような高リスク長期投資に慣れていない。

ベンチャーキャピタルの投資額は、アメリカの10分の1程度に留まっている。特に、バイオテクノロジー分野への専門的投資能力を持つファンドは限られている。

銀行中心の間接金融システムも、不確実性の高いバイオベンチャーへの融資には適していない。

資金面でのハンディキャップが、技術的な競争力の差以上に深刻な問題となっている。

──── 人材流動性の欠如

バイオテクノロジー産業では、研究者や技術者の流動性が重要だ。異なる組織での経験が、イノベーションを生み出すからだ。

しかし日本では、終身雇用制度の影響で人材の流動性が低い。優秀な研究者も、一つの組織に留まり続ける傾向が強い。

また、研究者の処遇も欧米に比べて低く、海外への人材流出が続いている。特に、博士号取得者の就職状況の悪さは、優秀な人材のバイオテクノロジー分野離れを加速している。

人材の質は高いが、その活用方法に問題がある。

──── 産学連携の形式化

日本でも産学連携は盛んに行われているが、その多くは形式的なものに留まっている。

企業と大学の共同研究は、既存技術の改良程度に止まることが多く、革新的な技術開発には結びついていない。

また、研究成果の権利関係や利益配分について明確なルールが確立されておらず、トラブルを避けるために消極的な連携に終わるケースが多い。

「産学連携」という言葉は普及したが、その実質は伴っていない。

──── 市場規模の限界

日本の医薬品市場は世界第3位だが、人口減少と医療費抑制政策により今後の拡大は期待できない。

国内市場が縮小する中で、グローバル市場を目指すべきだが、日本企業の多くは国内市場に特化した戦略を続けている。

薬事規制の違いや、海外展開に必要なネットワークの不足も、グローバル戦略の障害となっている。

内向きの市場志向が、国際競争力の向上を妨げている。

──── 政府の産業政策の混乱

政府は「バイオ戦略2019」「バイオコミュニティ構想」など、数多くの政策を打ち出している。しかし、これらの政策は省庁間の縦割りと予算の分散により、十分な効果を発揮していない。

文部科学省、厚生労働省、経済産業省、それぞれが独自の政策を進めており、統一的な戦略が欠如している。

また、短期的な成果を求める政治的圧力により、長期的な視点に立った投資が困難になっている。

政策の方向性は正しいが、実行力に問題がある。

──── 中国・韓国との比較

近年、中国と韓国がバイオテクノロジー分野で急速に存在感を高めている。

中国は国家主導で巨額の投資を行い、韓国は政府・企業・大学が一体となった戦略的取り組みを進めている。

両国とも、規制の柔軟性と迅速な意思決定により、日本を追い越しつつある。特に、バイオシミラー(バイオ医薬品の後発品)分野では、既に大きく水をあけられている。

アジア諸国の中でも、日本の地位は相対的に低下している。

──── 復活への道筋

日本のバイオテクノロジー産業の復活は可能だが、根本的な構造改革が必要だ。

規制改革による承認プロセスの迅速化、大学発ベンチャーの育成支援、投資環境の整備、人材流動性の向上、これらすべてを同時に進める必要がある。

また、「選択と集中」により、日本が強みを発揮できる分野(再生医療、がん免疫療法、創薬AI等)に資源を集中投入することも重要だ。

時間的余裕は残り少ないが、まだ追いつくことは不可能ではない。

──── 危機感の欠如が最大の問題

最も深刻なのは、関係者の危機感の欠如かもしれない。

「日本は技術力がある」「いずれ巻き返せる」という楽観的な見方が、必要な改革を先送りにしている。

しかし現実は厳しい。バイオテクノロジー分野での遅れは、単なる産業競争力の問題に留まらない。国民の健康と生命に直結する安全保障問題でもある。

COVID-19パンデミックで明らかになった日本の脆弱性を、二度と繰り返してはならない。

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日本のバイオテクノロジー産業の問題は、技術力の不足ではない。優秀な研究者と豊富な研究蓄積がありながら、それを産業化できないシステムの問題だ。

この構造的欠陥の修正には、政府・企業・大学すべてのレベルでの意識改革が必要だが、果たしてその意志と能力があるだろうか。

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※本記事は公開情報に基づく分析であり、特定の企業や機関を批判する意図はありません。産業発展への建設的提言を目的としています。

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