カスタマージャーニーマップという机上の空論
会議室の壁に貼られた美しいカスタマージャーニーマップ。認知から購入、継続利用まで、顧客の行動が整然とフローチャート化されている。しかし、この図表が実際のビジネス成果に結びついた例を、どれだけ見たことがあるだろうか。
──── 完璧すぎる仮想顧客
カスタマージャーニーマップの最大の問題は、あまりにも合理的な顧客像を前提としていることだ。
現実の顧客は、認知→検討→購入という綺麗なステップを踏まない。衝動で買い、後から理由を付ける。友人の一言で方針を180度変える。全く関係ない要因で最終決定をする。
しかし、マップ上の顧客は違う。彼らは情報収集を怠らず、比較検討を丁寧に行い、論理的に判断を下す。まるで経済学の教科書に出てくる「合理的経済人」のようだ。
この仮想顧客は、作成者にとって都合が良い。予測可能で、対策を立てやすく、上司への説明も簡単だ。
──── コンサルタントの完璧な商品
カスタマージャーニーマップは、コンサルティング業界にとって理想的な商品だ。
作成には専門知識が必要に見え、成果物は見栄えが良く、プロジェクト期間も適度に長い。クライアントは「本格的な分析」を受けている実感を得られる。
重要なのは、その効果を客観的に測定することが困難なことだ。売上が上がらなくても「実行が不十分だった」「市場環境が変化した」と説明できる。
一方で売上が上がれば、マップの成果として宣伝できる。どちらに転んでもコンサルタントは損をしない。
──── データ分析の錯覚
「データに基づいたカスタマージャーニー」という謳い文句もよく聞く。
確かに、ウェブ解析データやアンケート結果を使ってマップを作成することはできる。しかし、そこには重大な認識のズレがある。
データは過去の行動を記録するが、将来の行動を保証しない。特に、購買行動における「なぜ」の部分は、データからは見えない。
「検索から購入まで平均7日」というデータがあっても、その7日間に顧客の頭の中で何が起きていたかは分からない。家族の反対、予算の都合、競合製品の発見、たまたまの気分の変化。
これらの「見えない要因」こそが、実際の購買行動を左右している。
──── ペルソナとの合わせ技
カスタマージャーニーマップは、しばしばペルソナと組み合わせて使われる。
「35歳独身女性、年収500万円、趣味はヨガ」といった架空の人物が、認知から購入までの道のりを歩む。一見、具体的で説得力がある。
しかし、これは二重の抽象化だ。まず実在しない人物を作り、次にその人物の行動を推測する。現実から二段階も離れた分析に、どれほどの価値があるだろうか。
実際のマーケティングでは、ペルソナに当てはまらない顧客が売上の大部分を占めることも珍しくない。
──── 部門間の責任転嫁ツール
カスタマージャーニーマップは、組織内の責任の所在を曖昧にする効果もある。
「認知段階は広告部門、検討段階は営業部門、購入後はカスタマーサポート部門」といった具合に、責任が分散される。
売上が上がらない時、各部門は「自分の担当段階は問題ない」と主張できる。結果として、誰も責任を取らない状況が生まれる。
本来のマーケティングは、顧客の購買行動全体に対する統合的なアプローチが必要だ。しかし、マップによって分業化されると、全体最適が見失われる。
──── 実行段階での形骸化
仮にマップが完成しても、実際の施策に落とし込む段階で多くの問題が生じる。
認知段階での施策として「SEO強化」、検討段階では「比較コンテンツ充実」、購入段階では「決済フローの改善」といった対策が並ぶ。
しかし、これらは個別最適の寄せ集めに過ぎない。顧客の実際の体験は、これらの施策間の連携によって決まる。
結局、マップは美しいまま会議室に残り、実行レベルでは従来通りの場当たり的な対応が続く。
──── 真の顧客理解とは何か
では、カスタマージャーニーマップに代わる顧客理解の方法はあるのか。
答えは、もっと泥臭い現場での観察と対話にある。実際の顧客と直接話し、その場で行動を観察し、リアルタイムでフィードバックを得る。
統計的に有意なサンプル数は必要ない。本当に深く理解できれば、数人の顧客との対話で十分な洞察が得られる。
重要なのは、事前の仮説に縛られないことだ。顧客の言動から、予想外の発見を拾い上げる柔軟性が必要だ。
──── テクノロジーによる実態把握
現代のテクノロジーは、従来のマップよりも精密な顧客理解を可能にしている。
リアルタイムでの行動追跡、A/Bテストによる因果関係の検証、機械学習による パターン発見。これらの手法は、事前の仮説に依存しない。
ただし、テクノロジーも万能ではない。数値に現れない顧客の感情や価値観は、依然として人間の洞察力に依存している。
──── 小規模実験の積み重ね
カスタマージャーニーマップのような大がかりな分析よりも、小さな実験を繰り返す方が実用的だ。
一つの施策を実施し、その結果を測定し、学んだことを次の施策に活かす。このサイクルを高速で回すことで、顧客への理解が深まる。
完璧な計画よりも、不完全でも実行可能な行動を優先する。失敗から学ぶことを前提とした アプローチが、変化の激しい市場では有効だ。
──── 経営陣への提言
経営陣がカスタマージャーニーマップを求める理由も理解できる。複雑な顧客行動を整理して可視化したい、部門間の連携を促進したい、戦略的な意思決定の根拠が欲しい。
しかし、その目的を達成する方法は他にもある。定期的な顧客インタビュー、現場担当者からのレポート、競合他社の動向調査、実験結果の共有。
これらの方が、コストも時間も少なく済み、実用的な洞察を得られる可能性が高い。
──── 業界の責任
マーケティング業界全体にも責任がある。効果の疑わしい手法を「ベストプラクティス」として推奨し続けることは、クライアントの信頼を損なう。
真に価値のある顧客理解の方法論を開発し、それを普及させることが、業界の長期的な発展につながる。
見栄えの良い図表よりも、実際のビジネス成果に貢献する手法に投資すべきだ。
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カスタマージャーニーマップは、決して無価値ではない。チーム内での共通認識の形成や、顧客視点の重要性の啓発には一定の効果がある。
しかし、それを戦略策定の中核に置いたり、大きな予算を投じたりするほどの価値があるかは疑問だ。
現実の顧客は、美しいマップに収まらない。その事実を受け入れることから、本当の顧客理解が始まる。
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※本記事は特定の企業・組織への批判を目的とするものではありません。業界全体の構造的問題について考察した個人的見解です。